自画自賛の天才の馬鹿

悪女についてを描く展示風景
 昨日午後5時、自分史上最長の展示期間であった企画展、「悪女について」を描く が終了しました。炎天下であったり、台風が近づき強風が吹いたりする中、足を運んで頂いた皆様には感謝申し上げます。有難う御座いました。
そして、ダズルギャラリーオーナーの村松さん、今回まぜて頂いて有難う御座いました。
そして、デザイン協力、制作指導して頂いたマルプデザインの皆様、とても良い勉強をさせて頂き有難う御座いました。
今回得たものを励みに今後も精進していきます。

 前述した通り、今回の展示の会期はおよそ2週間で自分が参加した展示の中では最も長く、そのお陰で会場では沢山の今までお会いできなかった方々とお会いすることができた。それに伴って、様々なご意見、ご感想を頂戴することができた。嬉しい。
多くの方々にお褒めの言葉を頂く事ができたのだが、自分は褒められる事が苦手、というかなんと言うか、まぁ苦手。
なんでか。だって、自分より断然良い絵を描かれているイラストレーターの方々が「いいですねぇ」と言って下さる。嬉しい、もちろん嬉しいのだが、どうしても、自分のような未熟者が滅相も無いですよ、勿体ないお言葉ですよ、という卑屈な心が働いて、体内がぐにゃぐにゃ波打ってなんかむず痒いような感覚を覚えて、どんな顔をしていいかわからなくなり恥ずかしい心持ちになるから。もう40にもなろうと言う年齢なのだから、普通に素直にお礼を申し上げればいいだけの話なのだが、それができないというのはなんとも情けないし、傍から見ればさぞ気持ち悪かろうと思う。もっとしっかりしなければいかん。
どげんかせんといかん。

下にあるのが今回原画と一緒に会場にて展示されていたもの。ワークショップ形式で作られ、販売はされないものの、自分の絵が初めて文庫の表紙になった紛れも無く記念すべき本。
初見から展示期間中は、なんだか他人事のようでポカーンとしてその存在の重要さがいまひとつ実感できなかったが、自宅に持ち帰り、本棚に納めてみてようやくほほう、そうかそうか、なるほどなるほど、と事の大事さに気付いて感慨深い思いが湧いてきた。

完成品1

帯を外すと
完成品2
花が描いてあり、文字通り華やかな感じに。
このアイデアは自分の担当デザイナーであったマルプデザインの李さんの発案で、自分は完全に乗っかる形。まだルーキー的なキャリアでありながら、この本を手にする人に対するサービス精神というか、おもしろい本を作りたい、という情熱が感じられて、自分は好感を持った。今後が楽しみ、などと偉そうな事を思った。

自分は誰かとひとつのものを作り出すという作業は初めてで、同じく李さんも初めてであったらしい。言わば新人同士が、どうにかこうにか悪戦苦闘して完成に至った苦心の作と言えると思う。賛否あるのは当然だと思う。
しかし、自分が思うのは、いつだって未熟者なのだ、と言うこと。いつだって未熟なのだが、そのときそのときで現時点の技術と経験を基に、最高のものを作る努力をする、そのくらいしか能がないのだ。
そういう点では今回我々は努力を惜しまなかった、と思うので、現時点で精一杯のものを作れたと思う。

あぁすれば良かったとか、こうしたら良かったのかーと気付いたことは、次の機会に生かすしかない。
それしかないのだ
これでいいのだ

あらためて、李さんお疲れ様でした。
おれたちがんばった

判断は委ねます、はいつも

梅雨前線がー、とか、上空の寒気がー、とか全然天気が安定しないここ数日の日本、東京。
外なんか出たくないよー、という雰囲気が漂っているなか、いよいよ今日から自分の参加する展示「悪女についてを描く」が始まります。
今回は何かと、今までの展示とは勝手が違い戸惑うことばかり。会場では既に作品諸々は出揃っているので、後戻りは出来ない、まな板の鯉なのですが、自分的には反省点が多く消極的とも言えなくもない心境です。だからと言って「やっぱやめます」とは言えるわけもないので、だったらもう余すところなく見て頂こう、チャームポイントも恥部も、という開き直りの心で臨もうと思っています。
今日は参加者のトークイベントなるものもあります。つまり自分もお客さんの前で喋るのです。自分の話など聞いて頂いていいのか?という疑問も浮かぶのですが、「時間の無駄でした」とか言われないように頑張って喋ります。
おそろし


悪女について(3)

 「たとえば哲学というものを考えてみると、ここにひとつの本質のようなものがあって、この本質は真空によって成り立っていると考える。この真空を形あるものにするために哲学は何をするかというと、真空以外の部分を言葉で埋め尽くしていく。これが哲学のやり口だ。非常にまどろっこしくて、かつ膨大な作業だ。」

これは中島らも氏の著書「バンド・オブ・ザ・ナイト」に出てくる一文。自分は「悪女について」を読んでこの文章が頭に浮かんだ。
なんでか。それは、決定的に形作られていない一人の人間、富小路公子を、27人が話す言葉を集めて、読者それぞれが頭の中でその輪郭を作り出し、人間性を構築していく感覚が前述の文の内容と似ている気がしたから。しかしながら、情報量が27人じゃ足りないのか、或いは作者が意図的にそうしたのか、文章だけでは完全に富小路公子を完成させることはできず、どこかしらに読者の想像とか推理とかが入り込む隙間が開いている気がする。なので、読む人それぞれで富小路公子という像は変わってくるかもしれない。27人が全員正直に語っているのか?という疑念が湧けばさらに変わってくるだろうし。
そこがこの「悪女について」の面白いところかな、と思った。
だから、自分は今回制作するにあたり、なるべく想像を飛躍させたような描写はよして、本文からくみ取れる範囲で描こうと思った。最後の隙間を埋めるのは読む人それぞれが好きにすれば良い、と。
うまくいっていれば良いのだけど。

前述の文の続きで
 「詩はこれと対極の性質を持っている。詩は弓で射抜くように言葉の矢を使って、真空そのものを射抜く。」
これは詩に限らず、芸術と言われるもの全般に当てはまるのではないか、と自分は思っている。そして絵に向き合うときはいつも頭に置いてある言葉。
なかなか真ん中は射抜けないようです。